昭和48年6月20日 朝の御理解



信心の心得 一、真心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよ。

 お道で云う真心の道とは、どういう道を云うのであろうか。
 昨日は筑水連合会の教会長先生方の集いがここ合楽でございました。それでまあ色々事務的なこと、それから、又いろんな布教対策いろんな事が朝から午後の四時過ぎ迄ございました。
 私はもう普通は若先生が参りますから、その雰囲気をよくは分かりませんのですけれども、又実際に事務的なお話なんかは全然分かりませんけれども、まあ色々と結局はどうすることに依って多くの人が助かるかと。それにはどういう風な布教方針、又布教させて貰ったらよいのか、未信奉者いわばまだ信心を知らない人達の上に、どういう風にお手引をさせて貰うかと云った様な事が問題になり、来月講演会が未信奉者を対照とするところの講演会が久留米の文化ホールでございます。その事についての色々なお話合い。
 次には文書布教という事についてのことでしたけれども、まあ色々と最後に迄話を皆さん熱心に研修をなさいました。
 私も聞かせて頂いており乍ら私には一つもピンとこない事ばっかりでして、如何に私がずれとるかと云うことを感じたんですけれども。
 これは昨日の西日本の新聞に何月生まれの人の運勢と云ったような事があるでしょう。私は毎日あれを見るのです。ええまあ、皆さんの場合はどうか分からんですよ、合うか合わないか。
 けれども私はね、あれは私の為に書かれておるもんだと信じておる。ですから私はあれを見ていつも自分を占うと云うですかねえ、一日をそういう感じを持つのです。
 昨日はとに角ね、組織がある、その組織の組織外になる。今日はどうもそういう雰囲気だと。組織があるけれども組織の外になる感じだから、まあつかず離れずついて行かなければいけないぞと云うことが書いてある。
 もうピッタリした事でした。と、云う訳でしたから私も心掛けさせて貰って、まあ一生懸命先生方のお話を聞いておりました。
 おかげでお話をしておられる事務的なことやら分かりませんけれども、ほー大体いま教団の動きとか、又はこちらの地方の教会の行事なんかと云うことを分からせて頂いたんです。
 中にその文書布教と云うことについては、未信奉者、信心の無い人達に対するところの文書布教等がなされなければならん。教会自体でそんなら文書布教が出来とる所がもう昨日は一人一人会長先生が質問しておられました。
 ところが文書布教が出来とる所と云うのは本当に出来とると云うのは甘木と合楽だけでした。他の教会は思うておるけれども出来ない。小郡の教会がちょっとしたパンフレット的なものが出ておると云うだけで後は何もない。
 甘木には「しんあい」と云う小さい冊子が出ておる。ここでは「おかげの泉」。それでその事について色々な検討がありましたから、私は皆さんにおかげの泉を一冊づつ配らせて頂いて、こちらの合楽の先生の場合は文書布教についてどういう風にお感じになりますかと云うことでした。ですから皆さんの考えと私の考えは全然違う。今私の方で甘木あたりは何千ですよねえ、やっぱ出社が有りますから。合楽の場合はまあ五百部ですか。
 と云うのはこの御本の題名が、おかげの泉とありますから看板に偽りが有ってはならない。ですからあの本を繰り返し読んで下さる事に依って、もう事実おかげに直結する、おかげが受けられるものでなからなければいけないと思います。
 だからとても教外の方達なんかが読んでも分からんと思いますけれども、まあ熱心な信者はあれを五部十部と云う風に買ってそれをお導き用に使っておると云う人も有りますけども、実際は御神縁を頂いておる、特に遠隔地の方達がこれは月々です、今月のおかげの泉でこうおかげを頂いたと、もうおかげの泉の体験が手紙で来るのです。
 又皆さんの場合なんかはですね、あれを繰り返し読んでご覧なさい、もう皆さんが頂いた御理解ではあるけれども、改めておかげを頂くです。
 ですから私共の場合はもうおかげと直結するもの。だからある人はあれを日本語に訳したらどうかなんて皮肉を云う人もありますけれども、まあ日本語に訳すと云うことはも少し分かりやすくしたらどうかと云う意味なんですけれども、もう私がお話をしとるそのままをあれには書いておりますし、ですからもう問題は分かり易くと云うことよりもおかげの方へ直結する。勿論それに依って分かると云うことよりもそうなんですけれどもと云うて私はお話をしたことでした。
 非常に感動を受けられたような感じでした。とりわけ最近最後のところにひと月の御理解の中から抜粋した短いのが有ります。
 それで皆さんこれは一部づつ頂いて行ってもいいですかと、どうぞお持ち帰り下さいと云うて差し上げた訳ですけれども。
 その未信奉者に対するところの、いわば信心を伝えると云うことに於いてもです、先ずは私自身がおかげを頂き力を受けて私が助かっておる。だからああたもどうぞと云うことでなからなければですね、只直接未信者に金光教を宣伝してもです、ちょっと飛びついて来る人がないじゃないですけれども、それは本当の信者にならないと云う私はそういう体験を持っとります。と云うことを話させて頂いた。
 私の側に二日市の千種先生が座っておられましたが「もう大坪先生そうです、そうどころじゃないですよ」と云うことでしたよ。
 如何に分かり易く、例えば他の雑誌にでも載っておる様な記事を載せて出しても、そこだけは読んでも大事なところは読まれないと云った様なのが実状じゃないだろうか。
 これは私は何処までも古風ですけれども、おかげの泉というそのものが看板に偽りがあってはならない。成程これを読めば助かると云う。だから読まなければ馬鹿らしか、読まなければ損すると云う様なものを最近は非常に熱心に皆さん読まれておる証拠には、あれを初めの間にはここの布教費から出されておったんですけれども、最近はどうやら黒字と迄はいかんけれども、カツガツ位のところでいっとると云うて話したんです。みんなにそれだけお金を出してでも読みたいと云う意欲が出てきたんだ。
 そしてこれは自分だけのものじゃいけないんだと云うのであれが五部十部づつまとめて売れておるのだ。それが五百から出ておると云うことをです聞いて頂いた。
 
 次には今度北九州の教務所が福岡に土地を買われた。そして今度の御本部の旧斎場をこちらへ持って来てそれをこちらで再建する。だからその事がです、例えば目で見る金光教と、もう教外の方達でもどんどん入って行ってまあ一服されたり、又は金光教を見たり読んだり出来る様な雰囲気と云うものを盛らなければならんが、先生方の御意見はと云うことでした。みんなやっぱそういう意味の事を言っておられました。
 例えば京都の西本願寺なんかは会館が出来ておる。その会館にはどういう人でも入って行ける。最近は非常にそこの中のムードがよいからアベックが多い。そしてアベックでついでに話をいっちょ聞こうかと云った様な雰囲気がある。
 だからそういう事になってきたら事実は力の無いと云う証拠ですよ。いくらそういう事が未信者の方に利用されておると云うことだけであって本当の宣伝にはなっても助かりと云うことにはつながらない。
 私はそういう話が出とる時に合楽の先生はどうですかと言われましたから、はい私はそういう期待は一つも持ちません。私は今度そちらに家を立てたり土地を買うたりする経費が沢山要ります。その辺の御用はいっちょ本気でさせて頂きたいと思う。思いますけれども、そういう期待はひとつも持ちません。まあ私に言わせるならばです、教務所が中央に出て来たと云うことだけが便利が良くなると云うことだけしか感じませんと申しましたら、みんなが大笑いをしておりました。本なこてそうです、と云う訳なんです。又事実そうです。
 そこに会館が出来てからそこでそんなら信者が増えるとか助かるとかと云うことのあろうとも思われません。信者が増えたり信者が助かったりするのはもう何処までもこの教会でなからなければならない。これは私はそう信念させて頂いておる。
 ですから教会自体にです、そういう力そういう働きの出来れる場と云うものを作って行かなければならん。そういう事をお話しました後に、神様に御祈念をさせて頂いた。今私が申しましたことがあれで良かっただろうかと云うことをお伺いしながら御祈念をさせて貰いよりましたが、今ここで話があって居ることはね、小売をどげんしたなら小売が売れるじゃろうかと云う事ばっかり話してから卸元の事がおろそかになってくると頂きました。
 ですから小売をそんならどげんしたなら小売で売れるか、そして買うた者がです、はあーこらよか、安かと言やいいけれども、買うた者がです、あんまり大した事じゃなかった、買うたばってんこれは・・・・だから実を云うたらですね、そんなら公開講演でもです、入場料を取ってからお話聞いて貰うと云う話をしなければ、只で聞かせるなんて、只じゃけん行こうかと云う位でたいしたことはないと私は言うた。
 そんなら今金光教でです、有料でです、未信者に話の出来ると云う先生が有るだろうか。はあーあの先生の話なら百円位の入場券ならば買うちからでも聞きに行こうかと云った様な教外の人でですよ、と云う人があるだろうか。又私は本当にそう思うです。
 だから私の方の文書布教の方針はそういう事であり、同時に又今度の会館が福岡に出来ると云うことについての私の考えはそこに大した期待というものは持たない。
 只私共小倉まで行かなくてはならなかったものが、福岡までで済むと云うことだけが有難いと思うとります。それでも御用はいっぱしさせて頂きたいと思うておると云うこと。
 そしたら神様からね、いわゆる卸売の方を大事にせよということ、いわゆる間違いのない、もうメーカーの品物がです、例えばそんなら有名商人と云うことになったら、卸屋がもうそれこそ特約店にして下さい、代理店にして下さいと云うのが出来る筈、品物が良かったら。だから教会自体が、云うならばそんなら卸売の場だと。
そん為にはその商品が、どこに置かれどういう風にと云うことはです、今日の御理解から頂きますと、信心の道を迷わず失わず末の末までも広く深く伝えて行かなければならない。
 為にはそんならお道で云う信心の道とは、ここに真心と書いてあるが、真心の道とはどういう道か、これならばあらゆる宗教宗派の者も真心と云うことはみんな一応は言うのです。
 だからお道で云う真心の道とは、もう何処までも和賀心の道でなからなければならないと云うことなんです。
 そして最近本部から出されている三部作と云われる「金光大神」又は「金光大神覚」「概説金光教」の教学的勉強と云った様なものが大変熱心に各地域で行われております。
 今度も二十三日、二十四日ここの綾部さんを先頭に秋永先生それから正義さん、高橋さん五名小倉でその概説金光教の勉強がある訳です、一晩泊まりで。そういう事を勉強しておる訳です。
 ですから私に言わせるとです、その勉強もその事についても私一口話したんですけれども、そういうお道の本部が出しておるところの文書布教です。と云う様なものでもです、読まれなければ勉強せよと云うてもです、なかなか本当に勉強するもんじゃない。
 けれどもお道の信心が本当に分かりだしたら、も少し研究したいと云う意欲が出来て金光大神も読もう、金光大神覚も読ませて頂こうと云うことになって来なければです、これはまあ、お道の信者の教養としてです、金光教と云うものは、と云う概説的にでも分かっておらなければいけないと云う事だけではおかげにはつながらない。
けれども本当に信心が分かりゃ、それこそ尋ね求めしてでもいろんな詳しい本が有るならば本でも読みたいという気が起こって来るんだからそこんところが大事だと私は申しました。
 そしてです、これは勿論話したことではありませんでしたけれども、金光教の信心と云うものが他宗教にどれ程優れておるかと云うことを、いわゆる金光教の偉大性と云うこと。絶対性と云うものをです、もちっと根本的に教えなければいけないのですけれども、今それがなされていない。
 そんなら仏教とかキリスト教あたりの大宗教には一歩も二歩もまだ程度が低いと云う風にしか頂いてない、教団自体が。
 そげな段じゃなか、それこそお釈迦様だってキリスト様だって説き得てない世界が金光大神の世界にはあるのだと云うこと。
 それを端的に云うとです、真心の道と云うのを和賀心の道と云う。和賀心時代を創れとここでは云われておる。
 そういう様な例えば、その根本の所に有る信心と云うものは、もう他宗派でもう真似も出来ん。それこそ金光大神の足元にもよらないと云った様なものなんです。
 それは膨大なバイブルとか教典は有ります。けれども、そのいよいよのところの人間が本当に助かる世の中が本当に幸福になっていく、その原理とも云われる様なものを端的に表現し教えられるのは教祖金光大神以外にない。
 ですから私は真心の道と云うのを和賀心の道、でなからなければそれを迷わず失わず子孫にまでも、又はそれをそんなら周辺、未信者の方達にでも広げて行けれるというです、内容を持ったそういう普遍性を持ったところのお道の信心と云うものをです、先ずは信心を頂いて居る信者自身が頂いて、とに角この信心を子孫に残しておらなければ馬鹿らしいのであり、又それがこの様にも有難いものだと云うことをです、迷わず失わず末の末まで教え伝えなければならんのはね、その事だと思うのです。
 「金光大神」でもなからなければです、「金光大神覚」でもない「概説金光教」でもない。和賀心時代。和賀心と云うものを教祖が追求された、いわゆる教祖の生きられ方そのものが和賀心で生きられた。それを頂いて参りましたら、それを分からせて頂く事の為に、もっと深く分からせて貰いたい、教学的に分からせて貰いたいと云う願いが出てきたら、今お道で云うところの三部作なんかは、もう本当に読むなと云わんでも読まなければおられない。
 皆さんはどうぞこの三部作のそれをみんな手元に持っておられると思いますけれども、金光教の信者としてそれは持っておかなければおかしいのです。
 ですからやはり読みもしなければならん。勉強もしなければならんのです。けれども問題はここで卸売をしております。その卸売のその商品の一番大きいものは私は和賀心だと思う。その和賀心そのものをもっともっと強く広く又は深く深めて参りますと云うことがです、そのまま迷わず失わず末の末までも教え伝えると云うことになるのだと思うのです。
 今の金光教の先生方の話合いの場でです、如何にしたら未信者に金光教の信心を分かって貰うかと云う信心が何十年間続けられて居る。金光教の信心の曲がり角、金光教は壁にぶつかっておる。何とかしなければ、何とかしなければと云う、云うなら御取次成就信心生活運動が起こされてもう何十年になる。
 その何十年になっておって果してどれだけの実が上がって居るか、いやむしろ、その金光教の教勢と云うものは、いわば落ちてきておると云う事実がある。
 だから小売のことばっかり考えずに、も少し製造元のところから、いわゆる卸売の所から、これなら絶対売れる。これならと云う確信の持てれる商品を出さなければいけない。
 その製品をここでは和賀心と言われておる訳です。
 同時に昨日私申しましたように、私の方の文書布教であるおかげの泉と云う、私はあの雑誌の題名にです、偽りがあってはならないと思うからと云うことを申しましたが皆さん本当にそうなのですから、あれを繰り返し読んでご覧なさい。絶対におかげにつながるのですから、成程御理解で一辺頂いた御理解なんですよ、一日分から。けれども暇さえあればあれを一節づつでもよいから読んでご覧なさい。その時にもうおかげになるのですから、私が昨日お話した様なことが皆さんもです、おかげの泉と云うのは、だからおかげの御本なんです。おかげを頂く本なんです。
 だからあれを私の方では表紙を作ってちゃんと綴られるようにしております。皆の所はどうでようか。手元のところで・・・あれが綴られておるだろうか。繰り返し読まれておるだろうか。
 皆さんは朝御祈念で一辺頂きよるけれども、家族の者にいわば読んで貰えておるだろうか。
 これだけは絶対と思うことは、遠隔地の方達はそれを繰り返し頂いておると云うことです。見よってだからおかげを受けて居ると云うことです。看板に偽りはない、確かにおかげはそれこそ泉のように湧く程しに持っとるのがあのおかげの泉と云う御本なんです。
 だからそれを皆さんが頂いてです、せめて三部でも五部でも余分に求められることになったらです、今五百部出てるそうですから千五百、二千になるのは瞬く間だと思う。
 そして、ああた方がお参りは出来んでもおかげを頂いてそれを皆さんに読んで貰うたらです、おかげを頂いたらお礼参拝しなければおられないことになってくる事に依ってです、未信奉者の方達の信心に伝えて行けるおかげを頂いたら有難い。
 それには先ず皆さんがもう一辺聞いたつだからなんて思わずに読んでみてご覧なさい、おかげを受けますから。
 やっとかっと自分方に一部どん取っとるような、たった五十円ですから十冊買うたって五百円です。それを十部だけでは必ず誰かにでもです、渡される、この人ならば読んで下さると云う人に渡せる位な私はお導き精神がなからなければいけないと思う。
 そこから初めてです、卸売、小売と云う様なことにです、なってくるんじゃないかとこう思う。
 末の末までも伝えると同時に、それを末の末までと同時に横にもです、そういう伝え方をさせて頂かねばならない。その根本になるものは和賀心。だから先ずは和賀心と云うものがどういう効用があるものか、どういう風に効き目が有るかと云うことを先ずは自分が本当に頂かねばならんと云うことですよね。 どうぞ。